指導者は国民を簡単に意のままに誘導する術を知っている〔アドルフ・ヒトラー、ヘルマン・ゲーリング〕(11/11)

 現在、ガザの紛争、ウクライナの紛争と戦争が起きています。世界の各地で戦争が起きない日はないというほど起こっています。日本の近くでは中国が台湾に攻め台湾に有事が起きた場合、日本はどうするのか、といったことが話題に上っています。そこで、歴史を繰り返してはならないといった願いを込めて、過去の歴史を振り返りどのような過程をたどって戦争に進んでいったのか、ドイツのヒトラー(総統)政権で考えてみました。

世界で最も民主的だといわれたワイマール憲法のもとで生まれた独裁政権

ワイマール憲法
<Wikipediaより引用>

 世界で最も民主的だといわれた1919年制定の「ワイマール憲法」。国民主権、男女平等の普通選挙、議会制民主主義体制、大統領制などが盛り込まれたほか、基本的人権の「社会権」が初めて規定されました。社会権とは、生存権や教育を受ける権利、労働基本権などを指します。大統領は国民が直接選挙で選び任期も7年に限定されていましたが、第48条で公共の秩序回復のためには武力行使を含めて緊急手段をとることが認められ、その際には基本的人権に関する諸規定の全部または一部を一時停止する事もできたのです。

パウル・フォン・ヒンデンブルク
<Wikipediaより引用>

 1929年にアメリカを皮切りに1930年代後半まで続いた世界恐慌によって、ドイツでも700万人もの失業者が街にあふれてしまいました。失業していない人たちの心の奥にも恐怖というものが渦巻いていました。国民生活が疲弊するなかで、人々は強いリーダーを求めるようになります。そして、1930年の総選挙でナチスは一気に党勢を拡大し、国会の第一党になり、1933年1月、ヒンデンブルク大統領はナチ党のヒトラーに対し、組閣を命じヒトラー内閣が誕生し、ついにヒトラーが首相に就任したのです。

演説が得意だったヒトラー

アドルフ・ヒトラー
<Wikipediaより引用>

その中でヒトラーは、経済対策と民族の団結を前面に打ち出していった。そして表現がストレートだった。「強いドイツを取り戻す」「敵はユダヤ人」だと、憎悪を煽った。演説が得意だったヒトラーというのは、反感を買う言葉を人受けする言葉に変えるのがうまかった。
 例えば、独裁を「決断できる政治」戦争の準備を「平和と安全の確保」といった具合です。アドルフ・ヒトラーは、「平和を愛すると共に、勇敢な国民になってほしい。この国を軟弱ではなく強靭な国にしたいのだ。この道以外にない」と、国民に向けて演説したのです。

国民は指導者たちの意のままになる

 指導者は国民(人間)の心理を読み、巧みに利用しようと私たちの心に入ってきます。

ヘルマン・ゲーリング
<Wikipediaより引用

 ヒトラーの腹心ナチ政権で国会議長・空軍と司令官を務めたヘルマン・ゲーリングも後にその手法を語っています。
 ヘルマン・ゲーリングは、「国民は指導者たちの意のままになる。それは簡単なことで、自分たちが外国から攻撃されていると説明するだけでいい。平和主義者に対しては愛国心がなく、国家を危険にさらす人々だと批判すればいいだけのことだ。この方法はどこの国でも同じように通用する」と、「国民は指導者たちの意のままになる」と述べています。

ワイマール憲法の問題点第48条

 ワイマール憲法において、大統領は任期7年、直接人民投票によって選出し、非常に大きな権限を与えました。

第48条「ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、ライヒ(ドイツ共和国)大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。この目的のために、ライヒ大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる」

【基本的人権の停止】
 政権を獲得したヒトラーは、直後の2月27日の国会議事堂放火事件を口実に、28日、ヒンデンブルク大統領名の「人民と国家防衛のための」緊急令を発布、即日発効させ、「憲法第48条第2項に基づき、国家を危うくする共産主義の暴力行為に対する防衛のため」に憲法に定めた人権保証規定を棚上げしたのです。これによって個人の自由、言論・出版の自由、結社・集会の自由は制限され、通信の秘密の侵害、家宅捜索や押収、個人財産の制限などが可能とされた。ヴァイマル憲法の最も優れた点であった基本的人権規定がここに制限されることになってしまいました。

【議会制民主主義の停止】
 3月の総選挙後の国会ではナチ党は第一党にはなりましたが、単独過半数ではありませんでした。そこでもう一つの右翼政党ドイツ国家人民党との連立とし、二つの与党で過半数を確保したのです。その国会で、ヒトラー内閣は政府が議会の決議無しに法律を制定できるという全権委任法を提案した。反対党の共産党は81議席を占めていたが、国会放火事件を口実に議員活動は停止されていました。最大の反ナチ勢力の社会民主党に対しても弾圧の手が伸び、大半が逮捕されたり活動停止に追い込まれていました。中間的なカトリック政党中央党は、ヒトラーの弾圧を恐れて賛成してしまったのでた。こうして国会そのものが、国会の立法権を否定するという、いわば自殺法案が成立してしまいました。ヒトラーの議会テロと言われる行為に屈したのです。

【大統領制の停止】

ナチス・ドイツの国旗
<Wikipediaより引用>

さらに翌1934年、ヒンデンブルク大統領の死去によってヒトラーは首相兼大統領の権限をもつ総統(フューラー)に就任したのです。これによって国民が国家元首を直接選挙で選出する大統領制は消滅してしまいました。これ以後はドイツ共和国は実態がなくなり、総統国家、あるいはナチス=ドイツ(第三帝国)といわれる独裁体制に移行していったのです。

人間の心理を見抜き合法的に独裁政権を誕生させた指導者

 人間は不安や恐怖の感情を取り除き安心したいといった意識が働きます。その結果、不安や恐怖を煽った者(時の政府、大手メディア、専門家など)の意見を受け入れようとする傾向があるように思います。ヘルマン・ゲーリングに「外国から攻撃されている」と言われれば、「軍隊を強くし自国を守らねば」といった考えが生まれてきます。そして時の政府に賛同し演説やメディアにより大衆心理が醸成され、瞬く間に拡散されていきます。

 反対する人たち(平和主義者)に対しては、愛国心がなく、国家を危険にさらす人々と批判することにより、政府に賛成する人たちによって政府に代わり批判し、反対する人たちを抑え込むことが可能になります。かつての日本でも戦争に反対しようものなら「非国民」と言われていました。人間は大衆心理に「みんなで渡れば怖くない」「みんながやっているから」と、ことの善悪より多くの意見や行動に賛同しようとする傾向があります。その方が安心するからです。

 私たち国民は、「指導者は国民を簡単に意のままに誘導する術を知っている」と認識し、現状を注視して戦争に向かわせないようにしていくことが最も大切な時期に来ていると考えます。歴史を繰り返させてはならないと思います。

独 ワイマール憲法の教訓 なぜ独裁が生まれたのか
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