心から哀悼の意を表します
戦没者追悼式
毎年8月15日は終戦の日(終戦記念日)です。戦後80年が経ちました。先の大戦では約310万人の方々がお亡くなりになりました。心から哀悼の意を表します。それと共に、先の大戦の教訓が生かされ多くの先人の方々の努力があったからこそ、戦後80年間、日本では今の平和があるのではないかと思っています。しかし、この80年の間、世界を見渡しますと、悲しいことに世界のいたるところで戦争が起こっています。ジェノサイドと思われるような悲惨な状況もニュースで目にします。戦争で亡くなられたすべての方々に、心から哀悼の意を表します。
アメリカとの戦争は日本が真珠湾を奇襲攻撃したが
日本海軍の真珠湾奇襲攻撃
<インターネットより引用>
アメリカとの戦争は日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃しましたが、日本がアメリカを始めとする戦勝国から一方的に批判されなければならないのでしょうか。アメリカは日本が先に奇襲攻撃をしてきたから反撃をしました。しかし、東京大空襲をはじめ日本全国の都市を空襲し、最後には広島と長崎に原子爆弾を投下し、完膚(かんぷ)なきまで日本を打ちのめしました。そこまでする必要があったのでしょうか。
アメリカが策定したオレンジ計画
セオドア・ルーズベルト大統領
<インターネットより引用>
アメリカにとっての太平洋戦争とは、1853年ペリーが来日した際、本国へ、「イギリスの極東における勢力と拮抗するため、沖縄にアメリカ海軍基地を建設すべきである」と書き送ったっころから始まる太平洋制覇構想の実現とされています。そして、この構想の具体的プランは、日露戦争7年前の1897年(明治30年)、海軍次官の地位にあったセオドア・ルーズベルトが、アメリカの太平洋制覇のため日本を完膚なきまで打ちのめす、とする「オレンジ計画」として策定しました。
尚、オレンジ計画を策定したT・ルーズベルトの「表の顔」は、日本に憧れた親日家だったのですが、「裏の顔」は、日本を軍事征服するための「オレンジ計画」を策定した、「アングロ・サクソン至上主義の帝国的侵略者」だったのです。その後、40余年かけて計画が消えかかっては復活する!を繰り返し、その都度練り上げられ先の大戦で実行されました。
フランクリン・ルーズベルト大統領が「オレンジ計画」を断行
ジェームズ・リチャードソン大将
フランクリン・ルーズベルト大統領
<インターネットより引用>
リチャードソン大将は、1941年1月下旬、フランクリン・ルーズベルト大統領に対し、「日本との『外交による和解』こそ、正しい解決の道である」と進言しました。更に、「日本海軍を刺激して開戦に至るのを回避すべく、『太平洋艦隊』を『真珠湾』から『西海岸のサンディエゴ』へ戻すべきである。日本との戦争準備も整わないのに、日本を挑発する大統領のやり方を、われわれアメリカ海軍上層部としては信頼できない」と直言したのです。
これに対して、フランクリン・ルーズベルト大統領は、リチャードソン大将を合衆国艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官を解任するとともに少将へ降格しました。フランクリンの逆鱗に触れ前途を失った有能な海軍士官は少なくなかったといわれています。そしてフランクリン・ルーズベルト大統領は太平洋戦争開戦10か月前に、「対日開戦断行」を決断したようです。
太平洋戦争終結後、リチャードソンは、自伝『パール・ハーバーへの道』において、「フランクリン・ルーズベルト大統領こそ、アメリカを太平洋戦争へ誘い込んだ張本人である」と厳しく告発しています。
フランクリン・ルーズベルト大統領は対日外交圧力を一段と強化
1941年6月22日、ドイツはソ連へ侵攻し、「独ソ戦争」が始まりました。この結果、ドイツのイギリスに対する軍事的圧力が低下し、大西洋の緊張が緩和すると、フランクリン・ルーズベルト大統領は、1941年7月25日、アメリカにおける日本資産を凍結したのです。
戦前のタンカー
<インターネットより引用>
オレンジ計画は、1906年以降、「厳しい通商上の封鎖により、日本を完全な窮乏と疲弊に追い込んで、打ちのめす!」ことを基本方針としてきました。軍艦燃料が石炭から石油へ転換した1922年以降、対日作戦の基本方針は、「日本に『石油』を入手させない」ことだったのです。
援蒋ルート
日中戦争(支那事変)における大日本帝国と中華民国国民政府の対立の際、主にイギリス、アメリカ、ソ連が国民政府を軍事援助するために用いた輸送路
アメリカ海軍は、日本に石油を与えないため、日本とマレーシアとの連携を破断し、「日本の石油入手を妨害して、日本艦隊を『最後の艦隊決戦』へおびき出し、全滅させる」ことを「基本戦略」としていました。
苦しみぬいた日本は、援蒋(えんしょう)ルート遮断と石油調達を求めて、1941年7月28日、南部仏印へ進駐しました。これに対しフランクリン・ルーズベルト大統領は同年8月1日、「対日石油輸出」を禁止したのです。そして、ついに同年12月、日米は開戦に至ってしまったのです。
一部の指導者が戦争をはじめ、亡くなるのは多くの国民
オレンジ計画を策定したセオドア・ルーズベルトの裏の顔はアングロ・サクソン至上主義の帝国的侵略者、ジェームズ・リチャードソン大将は戦争回避者、フランクリン・ルーズベルト大統領はアメリカ海軍の独裁者、このことから戦争は一部の好戦主義者が綿密な計画を立て国民を納得させ実行に移していくことから、生まれるのではないかと思います。戦前の日本においても、同じように一部の指導者が必要感を持たせる言葉で国民を納得させ、戦争に向かっていったのではないでしょうか。