多くの苦難を乗り越えさせたのは?(鑑真和上)(9/5)

 6年生道徳の教科書(光文書院)に、「鑑真和上」の教材があります。みなさんも鑑真和上をよくご存のことと思います。

鑑真和上

 鑑真は、今から約1300年ほど前、唐(今の中国)の時代に揚州というところで生まれました。14歳で出家し、厳しい修行の末、唐でも1、2の名僧になった人です。鑑真が54歳の時、日本から唐に渡っていた2人の僧侶「栄叡(ようえい)」と「普照(ふしょう)」から、日本に渡ることを懇願されました。

 当時の日本では、僧尼は「租庸調」という税金が免除されていました。そのため重い税負担を嫌った庶民が、税負担を逃れるためにかってに出家して私度僧(しどそう)となっていました。この状況を何とかするためにも「伝戒師制度」を普及させようとした聖武天皇は、授戒できる僧を唐から招聘しようと考え、栄叡と普照を唐に派遣したのです。

来日の要請を受けた鑑真は、弟子たちに「誰か日本に渡って力を尽くしてみようとする者はいないか。」と問いかけました。当時、日本への航海はたいへん危険でしたので、誰も名乗り出る者はいませんでした。

 そこで鑑真は、「仏の教えを広めるためには、命を惜しんではいられない。誰も行くものがいないのであれば、私が日本へ行こう。」と言ったのです。

1回目、743年3月、鑑真55歳。沿岸一帯に海賊が現れたり、一行の中に邪魔する者が現れたりして、失敗。
2回目、743年12月、ようやく日本に出航した際、激しい暴風雨で失敗。

3回目、1ヵ月後、またしても大波に襲われ、船は完全に壊れ失敗。
4回目、鑑真のような名僧を国外に出すことは、唐の政府が反対したため、役人に止められ失敗。
5回目、748年、またしても嵐に阻まれ、暴風で一行は海南島へ漂流して失敗。
この間、栄叡は病死、鑑真は失明。それでも、鑑真は決心を変えることはせずに、
6回目、753年10月、鑑真65歳。日本の遣唐使船に乗り、とうとう日本の土を踏むことができた。

 唐の政府は名僧である鑑真を日本に行かせたくありませんでした。また、弟子の中には日本行きを邪魔する者もいました。度重なる日本行きを邪魔する企てや暴風雨によって、鑑真の日本行きはなかなか実現しませんでした。

 鑑真が日本行きを決心してから10年の年月が流れていました。たいていの人なら度重なる失敗に打ち負かされてしまうところです。それにも関らず、10年間も鑑真が日本へ行く決心を変えなかった理由は何だったのか?
 鑑真の核心部分に迫ってみたいと思います。

 1つ目の理由は、遠く日本から海を越えて「戒律を授ける僧侶に来日してほしい」と強く願う栄叡と普照の熱意に動かされたからでしょう。日本で、税逃れを目的にかってに出家した私度僧があふれている状況を聞いた鑑真は、仏教者として正しい戒律を授ける僧侶を早く日本に送る必要がある、といった使命感にかられたことでしょう。

 2つ目の理由は、日本に仏教を広めた聖徳太子が生まれた「日本」へ行きたいと、すでに日本にいる自分を強くイメージしたからでしょう。当時、遣唐使や日本から帰国した唐人によって、日本の仏教事情や聖徳太子のことが伝わっていたということは、十分考えられると思います。

 正しく戒律を授けなければならないといった「使命感」、聖徳太子が仏教を広めた日本という国に行ってみたいといった「好奇心」が多くの苦難を乗り越えさせたのだ、と思いました。

 鑑真は、なかなか行けなかった10年の間も、すでに日本に行った気分になっていたのかもしれませんね。未来のことをイメージし、すでに実現した気分になり、ワクワクしていたので諦めようといった考えは、微塵も過(よぎ)らなかったのかもしれません。 

 65歳で日本の土を踏んだ鑑真は、唐招提寺をつくり、仏教を広めました。そして、76歳の時、座禅を組んだまま静かになくなりました。

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