六千人の命を救ったビザ発行の決断に至るまで-杉原千畝(すぎはらちうね)-(9/16)

 6年生道徳の教科書(光文書院)に「六千人の命を救った決断-杉原千畝-」の教材があります。
 学習指導要領解説の「公正・公平、社会正義」には、「社会正義は、人として行うべき道筋を社会に当てはめた考え方である。社会正義を実現するためには、その社会を構成する人々が真実を見極める社会的な認識能力を高め、思いやりなどの心を育むようにすることが基本になければならない」と書いてあります。真実を見極め、自分の正しいと信じたことを貫いた杉原千畝が、ビザを発行する決断に至るまでの主な経緯を載せました。

杉原千畝(出典:光文書院)

 第2次世界大戦の時、ヒトラー率いるナチス・ドイツは、多くのユダヤ人を殺してしまおうとしました。その迫害から逃れるため、ユダヤ人たちは、隣の国のリトアニアに逃げ込みました。しかし、ソ連が攻めてきたことで、リトアニアにもいられなくなってしまいます。ユダヤ人たちは、リトアニアから脱出し、安全な地へ向かうために、日本領事館をおとずれました。

領事館でビザ発行を訴えるユダヤ人たち
(出典:光文書院)

 リトアニアにある日本領事館は、たくさんの人々に取り囲まれていました。その人々は、故郷を追われてきたユダヤ人たちだったのです。
「日本領事館へ行けば、ビザがもらえると聞いてやってきました。どうか、ビザを発行してください。」1940年7月18日のことでした。

出典:避難民の経路 地図

 ユダヤ人たちは、ソ連と日本を経由し、アメリカなどの安全な国へ渡ろうとしていたのです。日本を通過するためのビザは、ユダヤ人にとって、最後の希望だったのです。日本領事館の外交官だった杉原千畝(すぎはらちうね)は、ユダヤ人を助けたいという思いで日本の外務省に電報を打ち、ビザ発行の許可を得ようとしました。しかし、外務省は当時の決まりに従い、ビザの発行を許可しませんでした。

 杉原はあきらめ切れず、何度も外務省に問い合わせましたが、ビザの発行は許可されませんでした。そんな中、杉原は、日本政府の命令により、領事館を退去しなければならなくなりました。リトアニアにいられる期間は、あと約1か月。
(ビザがなければ、ユダヤ人は安全な国に渡ることができない。外務省の言うことに従って、ユダヤ人を見捨てるか、命令に背いてビザを発行するか…。)
 杉原は悩み、眠れない日が続きました。  

出典:産経新聞「ユダヤ人を多数救った『日本のシンドラー』杉原千畝の心受け継ぐのはのどかな山村だった…岐阜・八百津町が世界記憶遺産候補に」2016/3/22 10:00

 そして、7月29日。
「幸子、私はユダヤ人にビザを発行する。」
 杉原は、妻の幸子向かってそう  言ったのです。
「はい。そうしてください。」
 杉原は、日本政府から罰を受ける可能性があってもなお、自分が正しいと思った道を突き進むことにしました。

 授業を行うにあたり、子どもたちが、杉原の立場に立って、ビザを発行する理由と発行したらどうなるか、発行しない理由と発行しなかったらどうなるかと、「ビザ発行」という決断に至るまでの考えや気持ちを感じ取っていくように工夫できればと、思います。
 次回は、7月18日から7月29日までの、杉原の悩み眠れない日々を感じ取ってみたいと思います。

         六千人の命を救った決断-杉原千畝-(光文書院)より

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