核兵器廃絶は「人類が生き残るための絶対条件」- 長崎平和宣言-(8/9)

  1945年8月9日午前11時2分、市街中心部から北へ約3kmそれた松山町171番地の別荘のテニスコート上空503mで、原子爆弾が炸裂しました。

長崎市に投下された原爆のキノコ雲

荒野状態の浦上天主堂付近
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、たった1発の原子爆弾で約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。

 午前11時2分、妻と一緒に黙とうをしました。原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。

<23歳で被爆し、原爆症と闘いながらも原爆の悲惨さを訴えた長崎の詩人・福田須磨子さんが綴(つづ)った詩>

 原爆を作る人々よ!
 しばし手を休め 眼(め)をとじ給(たま)え
 昭和二十年八月九日!
 あなた方が作った 原爆で
 幾万の尊い生命が奪われ
 家 財産が一瞬にして無に帰し
 平和な家庭が破壊しつくされたのだ
 残された者は
 無から起(た)ち上がらねばならぬ
 血みどろな生活への苦しい道と
 明日をも知れぬ“原子病”の不安と
 そして肉親を失った無限の悲しみが
 いついつまでも尾をひいて行く
今こそ ためらうことなく
 手の中にある一切を放棄するのだ
 そこに初めて 真の平和が生まれ
 人間は人間として蘇(よみがえ)ることが出来るのだ

鈴木史朗長崎市長 <長崎市 ようこそ市長の部屋へより引用>

 鈴木市長は冒頭で上記の詩を読みました。原爆で亡くなった方々の辛さ悲惨さを真に受け止め、核兵器廃絶は「人類が生き残るための絶対条件」と強い決意を表しました。

そして、「長崎は、平和をつくる力になろうとする地球市民との連帯のもと、他者を尊重し、信頼を育み、話し合いで解決しようとする「平和の文化」を世界中に広めます。そして、長崎を最後の被爆地にするために、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けてたゆむことなく行動し続けることをここに宣言します。」と宣言しました。

 鈴木市長はガザ地区で戦闘を繰り返すイスラエル大使を式典に招待しませんでした。ロシア、ベラルーシは3年前から招待されていませんでした。戦争当事国だからこそ平和の式典への参加呼びかけをする、戦争当事国だからこそ参加呼びかけをしない、私は慰霊と平和を訴える式典であるならば、どちらも選択肢としてあるのではないかと思いました。すでにロシア、ベラルーシは呼んでいなかったのだから、イスラエルを呼ばなかった鈴木市長の判断は理解できました。

 私が解せなかったのは、アメリカ駐日大使が欠席したことです。原子爆弾を製造し投下した国がイスラエルが呼ばれなかったことで、自分も参加しないというのは、大人のすることではないと思いました。〇〇ちゃんが呼ばれていないのだったらぼくも行かない、とまるで子どもの世界のようだと思いました。原爆を投下した国が慰霊をする、平和を希求する、ことは当然のことだと思うのです。アメリカに追従する国がどこかもよく分かりました。

 

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