ビザ発行を決断した杉原は、1日に300枚発行することを目標にし、食事もほとんどせずに、ビザを書き続けました。
杉原が作成した通過ビザ(出典:Wikipedia杉原千畝)
何日か経つと、寝不足のために目は充血し、やせて、顔つきまで変わってきました。万年筆が折れ、腕が痛くて動かなくなっても、気力をふり絞って書き続けました。夜にはぐったりと疲れてベッドに倒れこんでしまいました。そんな状態が何日も続いたのです。
9月4日。
ついに、杉原一家がリトアニアを去る日がやってきました。列車に乗り込んだ杉原に、ビザ発行を求めるユダヤ人たちが押し寄せました。杉原は、ビザに必要なハンコを持っていませんでしたが、日本へ渡ることができる臨時の渡航許可証を書きました。列車が動き出しても、許可証を書く手を止めませんでした。
杉原千畝とビザ
(出典:Righteous Among Nations Archives-HKHTC)
しかし、とうとう手渡すことができなくなりました。
「許してください。私はもう書くことができないのです。みなさんのご無事を祈っています。」
杉原は、ホームに立つユダヤ人たちに向かって、深々と頭を下げました。
その後、杉原からビザを受け取ったユダヤ人たちは、ソ連、日本を経由し、安全な地へと旅立っていきました。杉原は、ビザの発行によって六千人の命を救ったのです。
出典:避難民の経路 地図
戦後、千畝はルーマニアのブカレスト郊外で収容所生活を送り、昭和22(1947)年に帰国しました。当時、敗戦した日本の外務省ではリストラが行われ、多くの外交官が職を辞していました。そのような中、千畝は「外務事務次官から、ビザ発給の件で辞めてもらうと言われた」との認識から、「独断でビザを発行したことの責任」を取って、外務省を退職することとなります。
イスラエル大使館(白い建物)
出典:Wikipedia駐日イスラエル大使館
その後、千畝は貿易会社に勤務し、ロシアのモスクワで過ごしました。昭和43(1968)年、日本に帰国していた千畝に、イスラエル大使館から、「千畝の発給したビザによってナチス・ドイツから逃れることができ、命が助かったユダヤ人の代表者であるニシュリ氏が、大使館の参事官として日本に赴任し、千畝を探している。」と電話が寄せられました。
千畝の前に現れたニシュリ氏は、ボロボロになった千畝の発給したビザを手にし、涙ながらに千畝へ御礼の言葉を述べました。
この場面で、ニシュリ氏が涙ながらに千畝にお礼のお言葉を述べた時、千畝はどのように思ったのかを子どもたちに聞いてみたいところです。【価値の主体的自覚】
「私がしたことは無駄ではなかった」
「本当にうれしい」
「ユダヤ人の歴史が続いていてよかった」
「私は当然のことをしたまでですよ」
「自分の正しいと思ったことを貫くことは、辛かったがとても大切なことだ」等
記念プレートの除幕式
出典:世界日報「杉原千畝をたたえた『命のビザ』記念プレートを」2015.9.16
ビザ発行から75年後の2015年9月、リトアニアでは、杉原の行動をたたえた、記念プレートの除幕式が開かれました。
除幕式には、国内外から多くの人が参加しました。その中には、75年前に杉原の発行したビザにより、リトアニアを脱出し、88歳になる男性もいました。
彼は、プレートの前で、
「今は、21人の孫に囲まれて、幸せに暮らしています。杉原さんがいなければ、このような人生はなかった…。」
杉原が救った六千人のユダヤ人の子孫は、現在、20万人をこえるとも言われています。
出典:六千人の命を救った決断-杉原千畝-(光文書院)、日本の伝統・文化に関する教育推進資料〔平成 30 年4月発行(第 40 号)〕(東京都教育庁指導部指導企画課)